2021年9月11日
ヴィクトリア・ファーンコーム、BBCラジオ5ライブ
2001年9月11日に米世界貿易センタービルや国防総省を襲ったハイジャック攻撃で、多くの子供が父親や母親を失った。BBCラジオ5ライブは、この攻撃で親を失ったり、親が負傷したという子供たちに話を聞いた。
「父はヒーローで、あの日たくさんの人の命を救った」
ブライアン・リーヴィーさんの父親ジョゼフさんは、ニューヨーク消防局の消防士だった。2001年9月11日、世界貿易センタービルの人命救助中に亡くなった。
ブライアンさんは当時16歳だった。事件後、ジョゼフさんがセンタービル南棟を上がりながら、同僚と話している音声記録を聴いたという。
「そうやって父のチームが何をしていたかを知りました。ビルが倒壊した瞬間、彼らは78階にいました。火災が起きた階まで上がれたわずかなチームのうちの1つでした。父たちがあの日、素晴らしい仕事をしていたと知れて本当に安心したし、なんて勇敢だったんだろうと父をとても誇りに思っています」
ブライアンさんは、ジョゼフさんは「大きな子供」のような人で、子供のために何でもしてくれたと話す。
「父親でいることが大好きで、僕たちの世話をするのが大好きでした。私は16年間を一緒に過ごせて幸運だったと思います。妹はたった10年だったので」
ジョゼフさんの死を受けて、ブライアンさんは家族と一緒にいたい、大黒柱になりたいと思うようになり、同年代の子供より「すこし早く成長した」と語る。
自身も父親となった今、10代の頃に日曜大工を教えようとしてくれたジョゼフさんの言うことをもっと聞いておけばよかったと思うと言う。
「家のものを直すときにここにいてくれれば、改修を手伝ってくれればと毎日考えます。父がいなくて、それが毎日寂しい」
ブライアンさんは現在、9/11などのテロ事件で父親を失った子供たちの支援団体「Tuesday's Children(火曜日の子供たち)」で働いている。20年前の9月11日は火曜日だった。
「ネガティブなことから、ポジティブな前向きなことを作り出そうと頑張っています」
「あの日いなくなったマイノリティーについて話をする人がいない」
母親が9/11攻撃で亡くなった時、アンジュネリー・ジャン=ピエールさんは19歳だった。
マキシマ・ジャン=ピエールさんはドミニカ共和国からの移民で、世界貿易センタービルでケータリングの仕事をしていた。
「翌日の水曜日が、母の最終出勤日になるはずでした。母にとって、毎日の通勤が大変すぎたので」
事件当日は父親と一緒にいたというアンジュネリーさんは、住んでいた場所からマンハッタンのビル群が見えていたという。
「母に電話しましたが、つながりませんでした」
アンジュネリーさんは次の日、マンハッタンへ行き、マキシマさんを探した。
「どこから始めればいいか、どこへ行って何をすればいいか、誰も知りませんでした。街は不気味なほど静かでした」
アンジュネリーさんはきょうだいと一緒にマキシマさんを探すポスターを作り、市内の病院の掲示板に貼った。
「今でも、9/11記念館にあるレプリカの壁に、母のポスターが貼ってあります」
アンジュネリーさんにとって最もつらかったのは、遺体がいっさい戻ってこなかったことだ。
「だから、その人がもういないということを受け入れるのが難しい。記念館の中では今でも、遺体や遺品を探す作業が続いている場所があります」
「毎年、追悼式のためにグラウンド・ゼロに行くたび、母の死を受け入れようと思いますが、難しいです」
アンジュネリーさんは現在、首都ワシントンの連邦議会議事堂で働き、国家元首を含む訪問客の対応をしている。また、写真家としても、9/11に亡くなったマイノリティーの物語を伝えるプロジェクトに取り組んでいる。
「このプロジェクトを始めたのは、あの日に亡くなったマイノリティーやその家族の話を聞くことがないと思ったからです」
「宇宙に恩返しする方法」
歌手のジャックスさんは、新型コロナウイルスのロックダウン中に動画アプリTikTokで有名となり、アトランティック・レコーズと契約した。
ジャックスさんのシングル曲「Like My Father(父のように)」は、ニューヨークの消防士で、9/11攻撃で負傷し引退した父親のジョン・ミスカニッチさんにささげられている。
事件当時、ジャックスさんはわずか5歳だった。当日のことで覚えているのは、空が黒くなったことと、学校を早退させられたことだという。
ジョンさんのチームは世界貿易センタービルへ行くはずだったが、橋が封鎖されていて足止めされた。
「街の混乱が、父親を最悪の事態から救ったのだと思います」とジャックスさんは語った。
事件後、ジョンさんはグラウンド・ゼロの撤去・清掃作業に従事した。このことが、ジョンさんの健康に慢性的な影響を与えた。
「作業で父の肺はひどい、本当にひどい状態になり、引退せざるを得なくなりました」
早期退職したことでジョンさんは家にいるようになり、ジャックスさんの演技や音楽のレッスンの送り迎えをした。これが、ジャックスさんのキャリアを助けたという。
「父が私の音楽の才能を育て、助ける時間を取ってくれなかったら、私はここでピアノを弾いたりコンサートを開いたり作曲したりしていません。それだけは確かです」
ジャックスさんは定期的に9/11の追悼コンサートを開き、被害に遭った家族のための献金を募っている。20周年の追悼式典にも関わる予定だという。
「父がまだ私たちと一緒にいられることに、こうやって宇宙に恩返ししようと思います」
「父親になって初めての9/11」
父親とおばが世界貿易センタービルで亡くなった時、ジョナサン・イーガンさんはカリフォルニアで大学生活1週間目を過ごしていた。
イギリスのハル出身のマイケル・イーガンさんは、保険大手エーオンの役員だった。南棟で同僚の避難を助けている中で亡くなった。
ジョナサンさんの母親は、ビルが崩壊する際に、マイケルさんから電話を受けていた。
「父は電話で母にさよならを言うことができました。愛している、子供たちにキスを、と言えたのです」
若いうちに父親を亡くしたことで、ジョナサンさんにとってのマイケルさんは「ほとんど神様のような」存在になったという。
父親が存命だったなら、「父に何か欠点があったとして、それに気づいて理解できるようになったかもしれないけれど」と、ジョナサンさんは語る。
代わりに「自分の頭の中では、(父親は)一生懸命働き(中略)私や家族に良い生活を与えてくれた、素晴らしい偉大な人物」なので、自分は「常にそれに見合うだけの人間になろうと」してきたと言う。
毎年9/11を迎えるたびにつらい思いをしているが、今年は特に、自分が父親になったことでさらに難しい日になるだろうとジョナサンさんは話す。生まれた息子には、「マイケル」というミドルネームを付けた。
「父親になって初めての9/11です。父や父との会話を思い出しては、ここにいてくれたらと思います」
ジョナサンさんは現在、「Since 9/11(9/11以来)」という団体で、9/11の事件やその原因を子供たちに教える事業を手伝っている。
「情報を共有することだけが、こうした事件の再発を防ぎ、究極的には過激派から世界を守る唯一の方法です」
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